先代の背中も、厳しい時代も
オール富士見で超えていく
2021年3月のSEIMITSU FUJIMIスタートから2年。長野県富士見町が誇るものづくり企業と、そこに携わる人々を紹介するなかで、やはり印象に残るのが若手後継者たちの存在。今回は特別企画として、小さい頃から社長である「親父の背中」をみて育ち、事業を受け継ぐ担い手3名に集まっていただきました。30代、40代、50代の次世代経営者たちが、それぞれの胸の内を語り合いました。
登壇メンバー紹介
(左)株式会社スター精機 専務取締役:名取有希さん
スポーツ健康科学部出身。21年間高校教師を務めたのち、スター精機4代目後継者として2020年に入社。現在は専務取締役として社員の人材育成にも注力している
(中央)株式会社なかみつ 代表取締役:中村光貴さん
工学部出身。金型メーカー勤務やカナダでの生活等を経て家業である株式会社なかみつに入社。2021年、現会長である父の後継者として39歳の若さで代表取締役に就任した
(右)有限会社牛山製作所 専務:牛山貴揮さん
国際学部出身。卒業後は部品系専門商社で営業職に従事。家業に携わっていた弟の退職を機に牛山製作所に入社し、現在は専務として製造から営業まで幅広く手がけている
「子どもごころに、『社長』という響きがかっこよかった」
――さっそく最初の質問ですが、子どものころ「自分は会社を継ぐんだろうな」と自覚していた方はいらっしゃいますか?(中村、名取手を挙げる)
――……あ、牛山さんは手を挙げてませんが思ってなかった?
牛山:まったく(笑)。
――むしろその理由から、お聞きしたいですね。
牛山:流れに身を任せて自分のやりたいことをやりたいなという気持ちが強かったので、継ぐか継がないかは全く何も考えてなかったんです。大学卒業後は、ものづくりは行わない、部品系の専門商社の営業をやっていました。
――ものづくりを生業にするとは考えていなかった。
牛山:そうです。この仕事には向き不向きがあると思うんですけど、「自分には向いていないな」って、小さい頃からずっと思っていたし、うちは早くに弟のほうが後を継ぐと言い出していたので、「それがいい」と、余計に後を継ぐ選択肢が自分のなかから消えていました。
――いっぽう、名取さん中村さんのお二人は、子どものころから事業承継を意識していた。
名取:どんな仕事をしているかも分からず、子どもながらに「社長」っていう響きがかっこいいな、とは思ったんですよね。
小さいころ、うちの祖父が社長をやってる時に、何度か会社に遊びに行ったんです。そのとき、何を作ってるかは全然分からなかったけど、とにかくうちの祖父が「社長」って呼ばれてる感じが子どもごころにもかっこよくて、よく覚えてるんです。何も考えず、ただ漠然と「僕も社長になりたいな」って思いました(笑)。ものを作りたいとかそういうことじゃなく、ただ見たままの「社長」という存在感だけで。それに、うちの父もちょうどそのころは工場長をやっていて、楽しそうだなって感じはしましたね。
中村:僕は工業系の高校に行くでもなく、普通科の諏訪二葉高校に行って、大学は工学部に進み、東京で暮らしていました。それでも「家業を継ぐ進路でいくんだろうな」という思いはずっと頭の中にありました。父親は一切そういうことを言わず、一方で母親からはプレッシャーがありましたね。自分が本当に興味があってこの道に進んだのかと言われると、あやしいのかもしれないとは思います。
大学卒業後は金型メーカーに勤務していましたが、リーマンショックのあおりで家業の会社が危機になったタイミングで父から呼び戻されるかたちで富士見に戻ることに。けれどふたをあけてみたらまだもう少し余裕があるということで、半年カナダでの生活を体験してから2010年になかみつに入社したという流れです。
いずれにしても、いきなり「家業に入れ」ではなく、みんな一度自由に回り道もさせてもらったので今がある、という部分はあるんじゃないかな。
――なんと、中村さんは海外生活のご経験までして入られた。たしかに、牛山さんも営業職、名取さんは教職と、それぞれまったく違う業種を体験して今がありますね。
名取:私は大学卒業後に教員試験を受け、高校教師として21年間勤務しました。もともと自分自身が高校野球に打ち込んでいたこともあり、野球部の顧問としてかなり熱中した日々を送っていました。けれど、父が体調を崩したことをきっかけに「ついにこの時かもしれない」と腹をくくり、2020年に教師を辞めてスター精機に就職したんです。
「いつ会社に入るんだ」と父親は相当ヤキモキしたと思いますが、そこまで表には出さずに見守ってくれました。だからこそ今、教職に名残はありながらも(笑)、置かれた立場でがんばろう、まずは人材育成など、できることで貢献しようと思えるのかもしれません。
牛山:私の場合も名取さんと同じく大学は文系で、後継者としてではなくシンプルに自分が興味のあった国際学部で学んでいました。その後も、自分がやりたかった営業職に就いて。そのまま家業に関わることはないと思っていましたが、後継者だと思っていた弟の退職をきっかけに、2016年に牛山製作所に入社することになりました。動機としては「このまま後継者がいなければ、将来会社がなくなってしまうかもしれない、それは食い止めたいな」という思いがありましたね。
帰ってきて気づいた、セイミツの町・富士見の層の厚さ
――みなさん経緯はさまざまですが、社長である父の背中を見て、会社を運営する誇りを「かっこよさ」として感じていたのかもしれないですね。
中村:そうですね、気づいたら「自分も社長という立場になるものだ」と思い込んで疑わなかった部分があって。サラリーマンをやっている自分は想像できなかったんです。実際、大学卒業後他社で勤務していた時は、「サラリーマンは自分には向いてない」って思っていました(笑)。
――それは、どういう部分で?
中村:社長である父親は、子どものなかでは「一番偉い人」でしたし、みんなにいろいろ指示を出してっていうのが「働く」というイメージとしてあったんです。でも、サラリーマンになると、それが逆の立場になるじゃないですか。その頃は居心地が悪いというか、「このままずっといくのかな?」っていう感じがありました。
牛山:私の場合は、逆にサラリーマンのほうが自分には合ってると今でも思ってます。自分が上に立つというよりは、「上から言われた範疇の中で自分がやりたいことをやる」ほうが向いてるかなって。今はまだ社長でもなく、そんなに責任のない立場なのに、すでに精神的にきつい時がありますし。当時も、後を継いで自分がやっていけるのか、迷いはかなりありましたよ。
中村:そういう考え方かあ。
――では牛山さんは、もし違う環境だったら後を継いでいなかったかもしれない?
牛山:そう……かもしれないですね。先ほどお話ししたとおり、弟が先に「後継者になる」と宣言していたこともあり、「じゃあ僕はこっちじゃなくていいな」とすっかり安心していたんです。でも、弟が突然辞めることになったときに自然と、「この会社を終わらせる、ということにはしたくない」という気持ちになりました。
じつは、家業に入ることを決めた時点では、富士見で若い方がたくさん自営業を継がれてるっていうのは全然知らなくて。入社後に、みつさん(中村さん)から青年部や地域の担い手グループ「若手塾」のお話を聞いて、「あ、こんなに若い人たちがいるんだ」と、はじめて気づかせてもらったんです。
中村:自分が若手塾に関わるようになって、もう片っ端から(笑)、誘い入れましたから。
――名取さんの場合はいかがでしょう。
名取:自分も、教職を辞めて帰ってきた当初は、富士見にこんなに製造業があるのを知らなかったんです。帰ってきてすぐ、青年部の方にお誘いを受けたり。それで初めて、こんなに人がいっぱいいることを知りました。
――みなさん、強烈な案内人からの誘いが多かったようですが(笑)、やはり仲間がいることの安心感は大きいでしょうか。
牛山:そうですね。だから入ることを決めた時点よりも、今のほうが精神的にすごく助かっています。やっぱり自営業の方じゃないと、悩みを話しても伝わらない部分も多いので。
中村:あるよね、自営業ならではの感覚。たまに昔の同級生などに会うと「社長なんて儲かってるんでしょ、いくらもらってるの?」なんて言われたり。最近は流せるようになりましたけど、昔はそう言われることが嫌でしたね、「いやいやそういうことじゃない、大変なんだよ、ボーナスなんかねえしさ」って。
牛山:まさにそうですね。見えない不安だったりとか、自分で何とかしないといけないってものが、経営者とサラリーマンでは大きく違うと感じます。
中村:何とかするしかないんだよね。コロナになって仕事が減っても。
牛山:はい。食っていくためにどう仕事をつないでいくのか、頭の中で想像しながらいつももがいています。 自分がサラリーマンの時は、ちょうどリーマンショックで景気が悪い時でしたけど、多分今ほどは考えてなかったです。
中村:後継者として会社にいましたが、結局本当に腹が決まったのは代表取締役に就任した時からだと思います。従業員もいますし、自分の家族もいますので、絶対潰せない、絶対何とかしなきゃいけない。借入金の名義も全部自分の名前になり、震えるような責任を感じて気合いが入りました。
時代は変わった。今、「売り方」も変えていくとき
――「仕事が減ってもなんとかするしかない」という流れから、あえてお聞きします。これまで「精密紀行」では、みなさんのお父様世代が一時代を築いてきたストーリーをたくさんお聞きしてきました。しかし今、若手世代から見て、「その頃と同じやり方じゃうまくいかないんだよ」と感じることはありますか?
中村:やっぱり、ありますよね……昔は、作ったら作っただけ売れて、それが儲けになっていたと思うんです。けれど20年くらい前から、風向きは変わっていったと思っています。1個あたりの単価も大幅に落ちてますし、ここ最近は材料に価格も本当に上がり過ぎちゃって、とんでもないことになってます。製造業として、いままでどおり部品を作って売るっていう商売が、だんだんと行き詰まっていくんじゃないかなと思うんですよね。
中村:AIなどがもっと発展すれば、人の手は本当にいらなくなってくる。もう全自動で図面などを読み込んで、勝手に機械でプログラム作って回すぐらいの感じになっていく。そんな未来は近いなと思います。だからこそ、自分たちが生き残っていくにはどうすればいいか、模索しながらやっていく必要があります。
牛山:やっぱり、作れれば仕事が来ていた時代から、自分たちで客先を探したり売り込んだり、工夫しながら何かしら特色出していかないといけなかったり。時代がどんどん移ってると感じます。
――だからこそ、牛山製作所では総合商社のように、横連携の動きで広い受注を獲得する方向性を強めている。
牛山:はい。その動きのなかで、富士見町の「ものづくり若手塾」で出会ったみなさんとのつながりもすごく活きています。みなさんにお世話になりながら。なかみつさんにも、スター精機さんにもお世話になって、ずっと継続できる案件も受注できました。
――中村さん側からはどうご覧になっていますか。
中村:お互い、お仕事をいただいたり、お願いしたりという関係性がありがたいですね。それぞれがすでに抱えていたり、出会った顧客のニーズを、横のつながりでより広く、取りこぼすことなく受注できていると思います。得意分野は自社で、できないものは適任の会社へお願いするというのが、それぞれにできてきていると思います。
――町全体のものづくり企業の支え合いや連携が強みになる。
中村:はい。昔は自社で抱え込みがちだったと思うんですが、最近はそんなことも言っていられないし、顧客もその会社がどの分野の専門なのかということもそんなに気にしないので、お互いにお願いできることは他社さんにお願いしたほうがいいんじゃないかという流れができています。
名取:弊社は、今のところそういう差配はすべて社長が担っていますが、牛山くんと社長で仕事の交わしをする様子はよく見ています。弊社の社長は長く商工会長を勤めてきたこともあり、最近は自分の会社よりも富士見町を宣伝するんですよ(笑)。新規のお客さまが来るたびに、この「SEIMITSU FUJIMI」の話をするんです。それぐらい富士見町の商業・工業含めて、つながりのなかで活性化をしたいという意思は感じていますね。
「頼れる仲間がいることも、富士見の強みだと思います」
――ここで、みなさんがお互いをそれぞれどういう印象で見ているかをお聞きしたいのですが。まずは中村さんからご覧になった牛山さんはいかがでしょうか。
中村:こんなことを面と向かって話したことないから照れ臭いけど、(牛山)貴揮は、さすが元営業職というか、人当たりが良いのがすごく強みになっているよね。お客さんのところでもどこに行っても、すごくかわいがられるだろうなって思います。
圧が強くないし、話し上手聞き上手だから、展示会とかでも、お客さんのところに行ってずっと話してる。
――牛山さん、社交派という印象のようですが。
牛山:確かに、展示会のときは自分のブースにあんまりいないですね(笑)。(中村)みつさんをはじめ、「若手塾」の方たちが、自分がいない時に見ててくれているぐらいです。
逆に僕からしたらみつさんは、僕も含めて富士見の若手みんなにとって、会社としての技術力だけでなく、同業の仲間としてもいつも頼りにさせていただいている、そんな存在です。そういう方がいてくれることも、この地域の強みじゃないかなと思います。
――名取さんのことは、おふたりから見てどうですか?スター精機さんといえば、やはり富士見のベテラン企業との印象が強いですが。
中村:僕、名取さんには今日初めてお会いしたんですよ。面識なかったので。いろいろ話は聞いてたんです。今日お会いしたらなんだか制服もしっくりなじんでいて、昔からやってらっしゃってるような感じがしますよね。
牛山:私が初めて会ったのは、ちょうど1年ぐらい前です。その時お話しさせていただいて、自分が従業員だったらいろいろアドバイスしてもらえそうで、すごく頼りになるだろうな、という印象でいました。いろいろ相談したくなるような方です。
――たしかに、「精密紀行」インタビューの時も、教職の経験を生かした社員教育や、働きやすさ改革のお話が印象的でした。
名取:改革というほどではないですけれど……、今のところ、それしかできないと思ってるので、社員さんと面談はよくしますよね。愚痴も含めて話を聞いて、じゃあそれを愚痴じゃなく建設的なものにするにはどうするか。その積み重ねによって、会社の中で不平不満が徐々になくなってきたかなという感じです。それが生産性の向上や、協力できる組織づくりにつながってくると思うんです。
「一社も欠けず、全員で生き残っていきたい」
――では最後に、これからの夢や目標をお聞かせください。
牛山:富士見町のものづくり若手塾の同世代の方々と協力し合いながらやっていかないと生き抜けないと切実に思うので、みんなで助け合いながら、相談にも乗っていただきながら、会社運営が安定すればいいなと思います。伸ばすよりも、安定したいなっていう思いのほうが強いです(笑)。
中村:僕も全員で生き残っていきたいです。富士見の一社どこも欠けることなく。そのためには個々でしっかり頑張らなきゃいけないんですけど、そのうえで今後はただ仕事を請けるだけじゃなくて自分たちの力を結集した何かを作れればいいかな、それがみんなの会社の利益になっていくようなことができればいいなあと思ってます。
それが自分たちの幸せや、会社に関わっている従業員やお客さんの幸せになっていけばいいかなと思ってるので、みんなで発展していきたいです。
名取:自分はまだその土俵にも乗れない状況なんですよね、自分のことでいっぱいいっぱいで。まず恥じないようにというか、職を変えてこの業界に入って間もないので、これからみなさんと交流を深めさせてもらって、認めていただいて、仕事を請けたり、相談できるような、そういう人物にならなきゃいけないというのが自分の目標です。
「教員辞めて来たけど立派になってやってるんだね」と、一日も早くみなさんから認めていただけるように。スター精機の灯を絶やすことなく、富士見をけん引できるような会社となれるように、しっかりと受け継いでいきたいと考えています。
――今日の会をきっかけに、ぜひ若手塾にも。
名取:若手じゃないんですけどね(笑)、新人だから、参加できますかね。
中村:じゃあ、今度一回飲みに行きましょう。
牛山:ぜひぜひ。
名取:じゃあ、そこからはじめましょうか。
――みなさん今日はありがとうございました。
(記載の内容は全て取材時点の情報です)